林 鵞峰 はやし がほう
   

黒川道祐自京師寄詩叙舊好
乃和韻以寓相思之情
想像洛陽三月春
花顔快笑柳眉顰
鶯吟千里風傳信
依舊交情緑樹新

又寄示春興數篇 就中賡
一律以酬之
遙寄春遊句
起予動客情
窓晴點霞彩
園暖弄禽聲
望海若華遍
渡江柳葉輕
士峯殘雪影
誤指九重櫻
壬子孟夏
黒川道祐、自ら京師(=京都)に詩叙を寄せ、旧を好む。
乃ち韻を和し、以って相思の情を寓(やど)す。
想像す洛陽 三月の春
花の顔は快く笑い 柳は眉を顰(しか)める
鶯は千里に吟じ 風は信を伝える
旧の交情に依り 緑樹新し


又 寄示す春興数篇。就中(=とりわけ)(こう=引き継ぐ)
一律を以って之に酬(むく=応える)いる。
遙かに寄す 春遊の句
起予(=気がつかなかったことを悟らせてくれ) 客情を動かす
窓晴れ 霞彩(=朝焼け・夕焼けの美しい色どり)(さ)
園 暖かく 禽(=鳥)声を弄ぶ
海を望んで 若華遍く
渡江 柳葉軽し
士峯(=富士山) 残雪の影
誤指す 九重の櫻
寛文12年(1672)
黒川 道祐(元和9年(1623)生〜元禄4年11月4日(1691年12月23日)歿)は、江戸時代初期の医者であり、歴史家。道祐は字であり、名は玄逸、号に静庵、遠碧軒などがある。林羅山より儒学を学んだ。父と同じく安芸国の浅野家へ家禄400石で儒医として仕えた。職を辞した後、洛中に住して、本草家の貝原益軒と交友した。主著として医学史書の『本朝医考』と、山城国の地誌である『雍州府志』などがある。
59p×31p

元和4年5月29日(1618年7月21日)生〜延宝8年5月5日(1680年6月1日)歿
制作年 寛文12年(1672) 55歳
 林羅山の三男。名は又三郎・春勝・恕。字は子和・之道。号は春斎・鵞峰・向陽軒など18あまりある。僧号は春斎。
京都出身。幼時父羅山の江戸移住に際し母とともに京にとどまり、文詞を那波活所、書を松永貞徳に学んだ。その後父羅山同様江戸に赴き江戸幕府に仕えた。
 父羅山の死去後の明暦3年(1657)林家を継ぎ、幕政に参与した。また高野山騒動の処理や朝鮮通信使応接に当たり、その間諸大名の求めに応じて、経書講義や和漢史書人物伝の類を執筆した。
 林鷲峰が寛文三年十二月に「弘文院学士」の名号を得たことの意義は、主要には学者の仕官形態に関わるものであり、この名号は羅山以来の僧侶のごとき「法印」号出仕の「儒者」という桎梏からの解放を林家にもたらした。一方、「弘文院 (館)」は東アジア文化圏内では教育や外交に参与する代表的な文官の地位を表象する官職・名号であり、この号の獲得は特に対朝鮮外交の局面で意義を持った。つまり「弘文院学士」号は、林家の国内外での地位の向上と確立とに寄与する名号なのであった。
 寛文3年(1663)12月26日、4代将軍徳川家綱に五経終篇の講義を完了して、老中である酒井忠清・阿部忠秋・稲葉正則・久世広之連署の奉書によって将軍家綱の上意が伝えられ、「弘文学士」の号を賜り、訴訟関係・幕府外交の機密にあずかった。この号に因んで書院(忍岡林家塾)を「弘文学士院」と称した。館名の「弘文」はこれに由来する。
 日本史に通じ、寛永18年父とともに『寛永諸家系図伝』の編修にあたる。父死後の寛文4年、羅山の『本朝編年録』を増補改訂して『本朝通鑑』として完成すべき命が下るや、幕府は上野忍岡の林家別邸内に国史館を建て、史生写字生らを雇い住居食料を支給。林家が官学の色彩を帯びる事実上の契機ともなった。寛文10年(1670)『本朝通鑑』を完成。『通鑑』と銘うつわりに朱子学の名分論的史観は顕わでなく、水戸の『大日本史』と比較かつ批判されることが多いが、これは事実を素直に叙述する鵞峰の意識的な姿勢による。広く松平忠房や徳川光圀ら好学の大名や各地の秘庫から稀書善本を借覧参考し、思想、文芸界に歴史意識を高める結果を生んだ。編纂作業の合間には詠史を課して詩歌連句を楽しむなど、思想性思弁性に縛られぬ肩の力を抜いたこの気風は、のちに糾弾される林家の微温的風潮によるものと思われる。
 多方面な関心をいだいて博学広才ぶりを発揮した父羅山にくらべ、鵞峯は、『本朝通鑑』や『日本王代一覧』などにおいて「日本」の国柄がどのようなものであったかを追究し、幕府政治の正統性や妥当性がどうあればいいかについて、その支配イデオロギー形成の端緒を開いたとも評される。
 他に『日本王代一覧』、『寛永諸家系図伝』など幕府の初期における編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えた。鵞峰の和漢にわたる膨大な知識に対する咀嚼力は、新学問の幅を十分に広げることになり、享保以後における儒の体系化日本化への布石となり、鵞峰が整えた林家学塾の組織は、その後の昌平坂学問所の基礎となった。
 寛永20年(1643)の著書『日本国事跡考』のなかで「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立、安藝嚴島爲三處奇觀」(松島、この島の外に小島若干あり、ほとんど盆池月波の景の如し、境致の佳なる、丹後天橋立・安芸厳島と三処の奇観となす)と記し、これが現在の「日本三景」の由来となった。2006年(平成16年)、林鵞峰の誕生日にちなみ、7月21日が「日本三景の日」と制定された。
 「弘文學士林叟」の下に、白文の「林恕之印」、朱文の「竹牖」の落款印が押されている。

推奨サイト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%B5%9E%E5%B3%B0
https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E9%B5%9E%E5%B3%B0-116416
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/handle/10097/33472


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